炒飯の代名詞・揚州炒飯
中国で炒飯と言えば揚州炒飯ということになっています。
レストランでメニューを開けば揚州炒飯、街角で看板を見上げれば揚州炒飯なのです。
揚州炒飯はなぜ炒飯の代名詞なのか。
謎と伝説に満ちた揚州炒飯の物語をご紹介しましょう。
そもそも揚州とは
江蘇省の揚州は長江と大運河の接点に位置する古い街です。
ただし大運河のおかげで栄えたのではなく前漢の時代にはすでにかなり有名な街だったようです。
むしろ繁栄した都市である揚州があったから運河でつないだということでしょう。
大運河を開削させた隋の煬帝はずいぶんと揚州を気に入っていたらしく、煬帝はたびたび揚州を訪れています。
当時の揚州は皇帝にとってもオモシロい街だったということになります。
もともと繁栄していた街が交通の要衝となり外国の文物が行き交う国際都市に発展。きっと今の上海のような街だったのでしょうね。
碎金飯
伝説によると煬帝のお気に入り料理に碎金飯という一品があったそうです。
豪華な名前ですが、これは「たまご炒飯」。中国語で「蛋炒飯」だったのです。
ちなみに碎金飯にはさらに伝説があります。このシンプルな料理には発明者がいると言うのです。
その人物は楊素という人です。この人は煬帝の立太子を支えた煬帝の恩人。それゆえに楊素は隋王朝の有力な政治家でした。
楊素が碎金飯を発明した経緯はわかりませんが、楊素が碎金飯を好んだことは中国のチャーハン蘊蓄のひとつです。
つまりもともとは楊素が好んで食べていた碎金飯を煬帝も気に入り、煬帝の巡幸によって碎金飯が揚州に伝わったというわけです。
この流れからすると揚州炒飯の絶対条件はたまご炒飯であること。
確かに今でもたまごが入っています。
別の説
揚州にたまご炒飯を伝えたのは煬帝だというのも、たまご炒飯を発明したのは楊素だというのも、あくまでも伝説です。
実際には隋の時代よりもはるか昔に揚州の漁民がたまご炒飯を食べていたという説もあります。
春秋時代の揚州でも余ったごはんにネギとたまごを加えて炒めて食べていた形跡があるそうです。
シンプルな料理なので誰でも思いつきそうに感じられますが、カシコイ人が作るまでは誰も気が付かないコロンブスのたまご的な料理かもしれません。
そうなると偉人が発明したという説が正しいような気もしてくる。
たまご炒飯の起源は謎に満ちているのです。
洗練されたたまご炒飯
とにかく揚州ではたまご炒飯が食べられていました。
たまご炒飯はそれだけでもおいしい。現在でも蛋炒飯、黄金炒飯などの名前で庶民的な食堂の定番料理のひとつになっています。
しかし明代に入るとたまごだけでは飽き足らず他の具材を足す改良が加えられます。これが現在の揚州炒飯の原型だと言われています。
ではどんな具材を足せばよいのか?
これが決まっていないところが揚州炒飯の醍醐味。
定番の具材は中華ハム、鶏肉、タケノコ、エビ、シイタケ。豪華版だと貝柱やナマコが入ることもあります。
共通するのは油にネギの香りを移してから強火(これはかなり重要)で炒めることとたまごが入っていること。
それ以外の具材は「勝手にしやがれ!」です。
ちなみに彩り重視なので味付けは醤油ではなくて塩。
醤油の香ばしい匂いが立ち昇る日本の茶色い「焼き飯」を下品というなら下品で結構。皇帝の炒飯と家庭の焼き飯。私はどちらも大好きなのです。
私の好みはさて置き、中国に行ったらまあとにかく食べてみてください。
味もパラパラ度合いも店によってピンキリなのでギャンブル要素もありますよ。