人口に膾炙する
「人口に膾炙する」という言葉があります。「よい意味で有名」という意味ですが今ではあまり使われないようですね。
「人口に膾炙する」は中国語由来の言葉です。中国語では「膾炙人口」と書きます。中国では今でもよく使われる決まり文句です。
もともとは「みんなが好き」という意味だったようですが、現在では日本語の「人口に膾炙する」と同じ意味で使われています。
この決まり文句の中の「膾」も「炙」も料理を表す言葉です。
「炙」は炙った肉です。
「膾」は「なます」です。
どちらも昔の中国では誰もが好む料理だったので「みんなが好きなもの」の代名詞になっていたわけです。
現代日本のカレーやラーメンに相当するくらいの人気の料理だったと考えてよいでしょう。
「膾」ってなに?
「膾」は「なます」だと書きましたが「なます」がわからない人も多いと思います。
「なます」は「羹(あつもの)に懲りて膾(なます)を吹く」にも登場しますから、昔の中国では非常にポピュラーな料理だったようです。
ただし現在の中国では「膾」はレアな料理なので大多数の中国人は「膾」を食べたことがないはずです。
「膾」はナマの肉料理です。ナマ肉を薄切りや細切りにして香辛料などと和えて作る料理が「膾」なのです。
「膾」に使う肉は羊や牛などの獣肉だけではなく魚も多用されていました。ですから日本の「さしみ」も「膾」の一種と言ってよいでしょう。
昔の中国では「膾」は非常にポピュラーな料理でした。
『論語』には「膾は細いほうがうまい」という意味の記述があります。
後漢時代のある本には「祝阿(地名)では生の魚を食べない」という記録が残っています。生の魚を食べないなんてスゴク珍しいから記録に残しておこうということです。
今の中国ではナマ魚やナマ肉は基本的に食べません。漢の時代に遡ると状況は真逆だったわけです。
金齑玉膾(きんさいぎょくかい)
「膾」を食べる習慣は漢以降も長く続きました。そして獣肉よりも魚を使うことが多くなったようです。
南北朝時代になると中国の食の歴史上もっとも有名な「膾」である「金齑玉膾」が流行します。
「齑」というのは、すりつぶしたショウガ、ニンニク、ニラなどの香味野菜と別の食材を和える調理法です。
金齑玉膾は白身の魚と黄色い食材を和えた料理です。
当時は特定の魚を使う決まりはなく調味料も「黄金色(つまり黄色)」であるという以外の制約はありませんでした。
黄金色は柑橘類の皮を使って出していたようです。
金齑玉膾は隋の暴君・煬帝の好物でした。
煬帝は江南地区を巡幸したときにはじめて金齑玉膾を口にしてその魅力に引き込まれたということです。中国の皇帝も昔はナマ魚を食べていたんですね。
唐の時代は「膾」の全盛期です。
李白の詩にも王維の詩にも白居易の詩にも「膾」が登場します。
当時は「膾」は王侯貴族の食べ物というだけではなく庶民の食文化にも浸透していたようです。
宋の時代に入るまでには金齑玉膾のレシピはスズキの仲間の「鱸魚」という魚の薄切りを使うものに限定されていたようです。
そして「香柔花」という花を和えることになっていました。
数百年後の医学者・李自珍は「香柔花」を漢方薬として今でも使われている「香薷(こうじゅ)」だと言っています。
香薷はシソの仲間の植物で非常によい香りがします。昔の中国では薬味としてよく使われていたようです。
なお、金齑玉膾の名前だけはナマ魚を食べなくなった現在の中国にも残っています。
ただし今では全く違うレシピで作られています。ナマ魚は出てきません。
「膾」の盛衰
宋の時代にも「膾」は人気の料理でした。
揚州には「膾」作りが上手な女性の料理人がいて欧陽脩はしばしば魚を持ってその女性の所に赴き「膾」を作ってもらったそうです。
ちなみに欧陽脩は「徐福が日本に行った」説の提唱者としても有名な北宋時代の文学者であり政治家です。
トンポーローの発明者として有名な蘇東坡(そとうば)の詩の中にも「膾」が登場します。想像しただけでよだれが出る食べ物ということですから相当な美味だったのでしょう。
ところが明の時代になると「膾」は徐々に廃れてゆきました。
昔の小説の中に「膾」という文字が使われているかどうかを調べた人のレポートがあります。
それによると明代の小説の中には一部に「膾」という文字が出てきます(例えば『水滸伝』)が、超長編小説である『西遊記』『金瓶梅』『封神演義』などにはぜんぜん登場しないというのです。
清代には「膾」は「地方の珍しい料理」という位置づけになっていたようです。
明の時代以降になぜ「膾」が廃れてしまったのかは謎です。
医学者の立場からはナマ肉を食べると寄生虫感染のリスクがあるので徐々に廃れたという説もあります。
ただしこのリスクは「膾」が大流行する以前から中国の医学者が指摘していました。また寄生虫が怖いならもっと早い段階で避けられていたはずです。
病気のリスク以外にも何らかの大きな理由があったからこそ中国で「膾」が廃れてしまったのだと思います。
その理由は何か?
この問題は中国の食の歴史の中で最大の謎と言っても過言ではありません。
香薷(こうじゅ)
最後に香薷について。このハーブは日本語ではナギナタコウジュ。
サーマルタイプは温。
功能は発汗解暑、行水散湿、温胃調中です。
夏の暑い時期に冷たいものを飲んだり食べたりして体調を崩した場合に、環境から来る「熱」と体内に入った「寒」を同時にケアできる特殊な薬です。
発汗作用が強いので汗が多く出ている人には向きません。
日本では専門家以外が香薷を扱うことは滅多にないと思いますが、コアな薬用ハーブのファンは寒・熱・汗との関係をおぼえておいて損はないでしょう。
なぜかというと、日本にも自生しているからです。